第20回関西日田会総会が開催されました。


 ”皆んなで創ろう新しい郷土愛のかたち”をテーマに9月8日(日)

〜「ホテル京阪京橋グランデ」で開催〜


 

 
今年は、総会開催前から台風13号が九州西部に進路を取り北上、さらに小笠原諸島南方で発生した台風15号が勢力

を増して本州を直撃かという、最悪の天気予報でしたが、幸い両台風とも近畿地方からそれて、総会も無事開催することが

出来ました。

 今次総会は、令和元年で再建20周年という節目の総会でしたが、故郷日田市からも原田啓介市長もご臨席して、参加者も

予想以上に多く盛会裡に開催することが出来ました。参加者の中には、関西大分県人会で顔なじみの大分市や津久見市、佐伯

市の出身者の方々も多く参加協力をして、花を添えていただきました。また、今回は20周年記念総会ということでアトラク

ションには、日田市西有田出身の演歌歌手・大島優子さんをお招きしたところ、「関西日田会20周年記念」ということで

あればと、快く出演を引き受けていただきました。

 大島優子さんは、村田英雄の最後のお弟子さんで「村田演歌の後継者」といわた人です。大島さんの素晴らしい歌声で会場

は大いに盛りあがりました。今後とも大島優子さんをよろしくお願い致します。ありがとうございました。

 ご来賓としては、光長大分県大阪事務所所長をはじめ、洲本関西大分県人会副会長、渡邉兵庫・神戸大分県人会副会長

ほか各団体のご代表にご臨席をいただき、来賓を代表として光長所長と洲本副会長に祝辞をいただきました。

 原田日田市長からは、日田市政や日田市の諸情勢についてのご丁重なご挨拶があり、就任当初から災害対策に始まり、

2期8年の実績をもとに日田市のさらなる発展のため、諸施策を推進していきたいので、関西日田会の皆さんのご支援を

よろしくお願いしたい旨のご挨拶がありました。

 また、今回も第101回全国高校野球選手権大会に2年連続3回目の甲子園出場を果たした、藤蔭高校の佐藤彬理事長

代理から、皆さんのご支援に対するお礼と、大分県地区大会や甲子園での裏話、選手の活躍などの話題を披露していただき、

次回こそは甲子園で、まず1勝して日田市の名前を全国にPRしたいので、皆さんのさらなるご支援をお願いしたいとの

挨拶がありました。

※今回も、企業・団体、個人の皆様から素晴らしいご寄贈品を提供していただき、また地元の酒造会社からは日田の銘酒

を沢山寄贈していただきました。寄贈いただきました商品は、お楽しみ抽選会にも活用させていただきました。

 改めて厚くお礼を申し上げます。

※(祝電) ○衆議院議員 衛藤征士郎様 ○日田市議会議長 石橋邦彦様


第1部

平成30年度の活動報告・会計報告

第2部



                            竹本副会長の開会あいさつで総会を開始
                      
 

             渡辺会長の主催者挨拶                    来賓挨拶:洲本関西大分県人会副会長

                    

 

             光長大分県大阪事務所所長挨拶                 原田日田市長挨拶

 

 
                                佐藤藤蔭高校理事長代理挨拶

 

 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 

第3部 懇親会


                           角 藤蔭高校同窓会相談役の乾杯音頭で懇親会を開始

 

               大島優子さん                          洲本昌邦副会長(歌手)

 

 

 

  

 

お楽しみ抽選会


 

第20回総会ということで20番目に幸運の抽選券を引き当て、藤井さんふらわあトラベルアドバイザーから超デラックス乗船券が千原弘毅さんに贈呈されました

 


今村相談役から「天領日田」の歴史について説明がありました。
≪日田の歴史≫
 豆田町と隈町は、ともに戦国末期に城下町として開かれたのが始まりだとされています。文禄三年(1594)、豊後日田・玖珠二万石の蔵入地代官を務めた
秀吉配下の武将・宮城豊盛が日隈山(現 亀山公園)に城を築き、その対岸に開いた城下町が隈町の起源でした。慶長元年(1596)には、後に豊後佐伯藩の
初代藩主となる毛利高政によって、現在の町割りの原型が造られたといい、当時は現在の中本町、隈1・2丁目を二重の堀と土塁で囲み、 一方の豆田町は、
慶長六年(1601)に小川壱岐守光氏が丸山城と称して月隈山に築城した際に、城の東側に十二町村より商家を移して町が開かれたとされます。
 元和二年(1616)、譜代の石川忠総が美濃大垣から入封して、丸山城を改築して永山城と改め、城下町を花月川の対岸に移して豆田町に改名しました。
 石川氏の入封するまでは、隈町が日田の中心地でしたが、永山城に居を構えてから豆田町に中心は移っていきました。
石川氏が寛永十年(1633)に下総佐倉藩へ移封されると、日田は中津藩の預かりとなります。
 寛永十六年(1639)、日田は天領(幕府直轄地)に組み入れられ、永山城が廃されて麓に日田陣屋(日田代官所)がおかれます。その後、一旦は日田藩
松平領となりますが、すぐに再び天領となり、宝暦九年(1759)には九州の天領を統括する西国筋郡代がおかれて、日田は九州の政治経済の中心地となり
ます。
 これにより、九州各地から日田に向う街道は「日田街道」とよばれるようになり、幕府役人や代官所を訪れる者の往来が多く、江戸期を通して日田陣屋町
は大いに繁栄しました。
 全国の天領で「郡代」がおかれたのは、飛騨高山、美濃、日田の3ヶ所のみで、いかに日田が九州の拠点として重要視されていたかが分かります。


田原実行委員長の〆のあいさつ