〜関西日田会文化部〜

”相国寺 金閣 銀閣の名品展「山水」鑑賞" "泉涌寺に想いを寄せて「皇室と泉涌寺」(対談と特別拝観)”

〈相国寺承天閣美術館〉


”相国寺 金閣 銀閣の名品展「山水」鑑賞"

               今回の展覧会「山水の声 遊山の詩」でみなさまをお迎えするのに この作品。一巻の十牛図である。
              禅の修行における入門の悟りに至る過程を牛と人間との関係にたとえて説いたもの

              1.尋牛(じんぎゅう) 2.見跡(けんせき) 3.見牛(けんぎゅう)4.徳牛(とくぎゅう 5.牧牛(ぼくぎゅう)

              6.騎牛帰家(きぎゅうきか) 7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん) 8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

              9.返本還源(へんぽんげんげん) 10.人?垂手(にってんすいしゅ)

              の十段階にわけて図示したもの。

               相国寺に伝わるこの十牛図の画巻は、相国寺で十五世前半期を御用絵師として活躍した周文の絵筆によるものと伝わる
              貴重な作品。

              〈山水〉

                奥深い谷にひそむ山水の声が聴こえてくる。
                禅の精神に結びついた山水の世界
                達磨が坐する洞窟から隠谷の声が聞える 山水と神思想が深く交錯し名画が生まれた。また、室町将軍が愛した中国
                山水画の世界。気品高く静謐な風景の中に異国の抒情が聴こえる。まだ見ぬ憧れの風景 異国の風が耳を澄ませる、
                そして相国寺文化圏が生み出した室町水墨画の世界 隠逸の思想でわが禅林特有の山水画を生んだ。
                山水に託されたそれぞれの想いが伝わってくる。

               平成30年1月22日(月)、この冬一番の寒波襲来の天気予報で京都は午後、霙交じりの雨の変わりましたが、渡辺会長
              以下9名が相国寺承天閣美術館で開催中の「山水ー穏谷の声」「山水ー遊山の詩」「山水ー臥遊のひととき」の名品の数々
              を鑑賞しました。


〜京都文化遺産のなかの都人たち〜

”泉涌寺に想いを寄せて”(対談と特別拝観)

〈京都仏教会主催・泉涌寺協力>

               午前中、「山水」ー穏谷の声 遊山の詩を観賞後は、午後5名が泉涌寺で合流して、泉涌寺妙応殿において「皇室と泉涌寺」に
              についての対談を拝聴。特別拝観として「楊貴妃観音堂・仏殿・舎利殿・御座所」を特別拝観して、泉涌寺の認識を新たにしま
              した。(以下、一部欠落部分はご容赦ください)

               ◎泉涌寺

               東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に
              弘法大師が。この地に庵を結んだことに由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称された順徳天皇の御代(承久元年・
              1219)に当時の開山と仰ぐ月輪大師俊じょうが、時の宋の方式を取り入れて、この地に大伽藍を営むことを志し、寺地の一角
              より清泉が湧き出ていた禅僧によって寺号を泉涌寺と改め、嘉禄2年(1226)には主要な伽藍が完成した。この泉は今も湧き続け
              ている。
               月輪大師は若くして仏門に入り、大きな志を持って中国の宋に渡り深く仏法を究められた。帰国後は泉涌寺を創建して戒律の復
              興を計り、律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として大いに隆盛させた。
               時に皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1212)に四条天皇が当時に葬られてからは、歴代天皇の山稜がここに営まれるよう
              になり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)篤い信仰を集めている。当寺が御寺と称せられる所以である。境内には仏殿・舎利殿をはじめ、
              天智天皇以降の歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉に一段とその美しい姿を映えさせている。


              「対談」

                ◎ 上村貞郎(うえむらていろう):東向観音寺住職(泉涌寺派管長 総本山御寺泉涌寺長老)

                  御寺泉涌寺と申しまして鎌倉時代に開かれました。御寺とつくのは、泉涌寺だけだと思います。泉涌寺は、月輪大師

                  (がちりんだいし)俊じょうが、中国の宋の国で12年間の長きにわたって勉強して、いろいろ持ち帰りいただいて泉涌寺を

                 開いた。泉涌寺を開かれて、もうすぐ800年になる。鎌倉時代には、浄土宗の法然上人、浄土真宗の親鸞上人、日蓮宗の

                 日蓮上人など有名な和尚がたくさんいた。俊じょうは、地味な方で、何事も一生懸命に努力するのを本分としていた。

                  泉涌寺ができたときは、 禅宗は酉年で建仁寺の明庵栄西(みんなんようさい)禅師、お茶を日本に持って帰った人で禅宗の祖と

                 いう人に慕われ、宋で勉強したので泉涌寺では、今でも法要は宋音でお勤めされることが多い。真言宗のお勤めは宋音でする

                 ことはない。宋音は漢字は一緒ですが、かなが違う。私は、平成18年に泉涌寺の長老になって12年になりますが、宋音に

                 なかなか慣れない。真言宗の時は、わしのお経を聞けよ、と威張って唱えるが、禅宗や天台宗や浄土宗の宋音のお経の時は小さく

                 なって人には聞き取れないような声でお経を唱えることしかできない。泉涌寺の若い僧は、初めから宋音でお経をそらんじている

                 ので、お経を唱えられるが私は、12年経ってもなかなか慣れなく小さな声でお経を唱えているという、泉涌寺とは、かわった寺

                 であります。

                 (皇室と泉涌寺)

                  鎌倉時代に四条天皇の葬儀を泉涌寺でしたのが、始まりでその前の後鳥羽上皇が生前に天皇を降りられ坊さんになられたときの

                 戒名を授ける(一般の人は出家して得度するが皇室はご落飾)のを、俊じょうがお授けしていたのが、皇室とのご縁ができた。

                  全部ではありませんが。最後は、明治天皇のお父様の孝明天皇と英照皇后様の葬儀をとりおこなった。明治天皇は皇室が仏教

                 から神道に変わったので、今でもこれから後にお参りする霊明殿で昭和天皇・皇后、大正天皇・皇后、明治天皇・皇后、孝明

                 天皇・皇后様の4帝8名を月命日に霊明殿で拝んでいます。そして最初の関わった四条天皇様の計9名の方の月命日に拝んでおり

                 ます。その折に歴代だけでなく、今上陛下やほかの皇室の皆様のご健勝も祈念しております。

                  そんな関係から、今でも天皇皇后両陛下が、京都へ行幸啓する時は、お出迎えに行きますが、両陛下から「いつも祈っていただ

                 き、ありがとう」とお言葉を頂き、皆から羨ましがられています。しかし、「おかせられましてはとか、あそばされる」などの言

                 葉を入れて返事をするのは、汗をかくぞ!。毎年1月18,19日に泉涌寺の正月のお勤めをして、お札をもって天皇家へご挨拶

                 にいきますが、私は、19日には、帰っておりますので、侍従が天皇陛下からお礼を申せと言われて、わざわざお礼の電話をして

                 いただく、また皇太子殿下のところも東宮御所の侍従長からお礼の電話がかかって来ます。

                   泉涌寺にはお釈迦様の歯を舎利殿にお祀りしているが、これは辰年しか公開していない。舎利殿の天井に龍の絵が描いてあ

                 り、龍の下で手をたたくと龍が泣きますので、辰の年だけ特別公開しようということでしたが、今年は1月10日から冬の旅とし

                 て特別に舎利殿を公開してくれないかということで、3月まで公開しています。お釈迦様の歯というのは。非常に数が少なくて、

                 ”お舎利”は無数にあり、私も携帯用のお舎利をいつも持ち歩いていますが。お釈迦様の歯は三つか四つかと言われ数は限られて

                 います。泉涌寺では舎利歯に牙を書いて舎利牙と言います。お釈迦様の説法は非常にご利益があります。是非拝んで帰っていただ

                 きたい。もう一つ泉涌寺には、楊貴妃観音様がありますが、お参りしていただくと女性は、より一層美人になり、男性は美男なり

                 ますのでどうぞお参りしてください。

                ◎ 山折哲雄(やまおりてつお):宗教学者(国際日本文化研究センター教授。所長などを歴任)

                  今年は、明治150年。天皇家と泉涌寺(仏教・お寺)関係を知るためには800年もしくは1200年の歴史の中で考える必要

                 があります。

                  1.日本人全体にとってどんな意味があるのか、皇室と御寺の関係を考えるとどうなのか

                  2.皇室の中において御寺の存在はどういう役割を果たしてきたのか、歴史を探る

                  3.800年〜1200年の歴史の中で積み上げられた天皇家と御寺の関係が明治維新によってどのように変化したのか

                  第1の問題として、日本人全体の問題としてその信仰の方向がどういう形なのか。それは神仏習合の関係で、歴史を知らなけれ

                 ば、皇室と御寺との関係は見えてこない。その形態が出来上がってきたのか。その完成形態は、江戸時代で天皇家から一般庶民

                 にいたるまで、氏神を中心とする村の神 神道と家々を中心とする仏教の禅と神道というものが出来上がってきた。今日の社会は大

                 きく変化してきて、つい最近までは、家々に菩提寺があり、人が亡くなれば菩提寺で葬儀をして骨をお墓に収める。同時に家々の

                 人は村の共同体に属しているから村の鎮守森の氏子であった。一般的には、氏子でありながら同時に菩提寺を持っていた。菩提

                 寺と氏神の二本立てできた。

                  同じように、江戸時代には徳川将軍家の菩提寺は増上寺、氏神は日光東照宮つまりこれも神と仏、神仏集合の二本立て、それか

                 ら各藩の大名も同じ氏神と菩提寺をもっていた。日本国民の95%以上の人が神仏二本立ての社会で生活している。

                  天皇家はどうなのかというと、天皇家の御代は伊勢神宮(天照大御神)、それに対して菩提寺は京都の泉涌寺(御寺)、そうい

                 う意味では、日本文化、日本人の全体の信仰の在り方からすれば、伊勢神宮と泉涌寺は同格である。増上寺と日光東照宮が同格で

                 ある。

                  村々の共同体の鎮守の森とそれぞれの家の菩提寺は同格である。そういう点で一般庶民から将軍家、大名に至るまで神仏集合

                 のシステムというものは出来上がった。このように日本人の国民的な本当の宗教的な本当のあり方だったのです。ここの所を押さ

                 えておくことがまず、第1であります。そこのところを例えば政治家が、どれだけご存知か。そ歴史的な背景を考えなければ、

                 おそらく天皇のメッセージを受け取る時に受け取り方に大きな違いが出てくる。

                  天皇は明らかに天皇の在り方について考えたときに「象徴としての、つとめが出来なくなったから退位をしたい」とおっしゃっ

                 た。また、後半でなんとおっしゃったか、非常に重要なことを言われた。8年前に、天皇はいずれ終焉を迎えることを考え「山稜

                 に葬ることをことをやめて火葬にして欲しい」と言われた。終焉の在り方をどうお考えかと言った時に、その終焉ということを

                 考えると天皇家にとって菩提寺がいかに重要な役割を果たすか、今日、公に伝えることはありませんが、天皇皇后ご一族の方々が

                 いかに先祖の年数を偲び、自分たちの今日の健康を祈ると同時に死を、終焉後をどう葬ってくれるかということについて、御寺に

                 大きな関心をいだいておられるかということは申すまでのこともないことであります。天皇家は神道という考えは間違いでありま

                 す。

                  第2番目の問題は、日本の皇室に仏教を取り入れようとした弘法大師・空海の役割が非常に大きい。1200年前のことであり

                 ます。空海は、中国に渡り中国の唐帝国がどのような国の運営をしておるかを目のあたりにして、当時は密教に基づいて唐という

                 帝国をつくり上げていることを聞いて学んで帰った。そして嵯峨天皇にお願いして内裏の中に紫宸院という道場を作ろうとして、

                 空海が修法院を亡くなる前の年にこれが実現される。今日の京都御苑は空海の時代の内裏とは違います。同じ紫宸殿の隣に修法

                 院という道場がある。

                  昭和になると天皇さんがここにおいでになって、その修法院で健康診断を受ける。身体にとりついた悪霊払いを行う。毎年行う

                 がこれは健康管理の宗教医療・宗教治療という意味であって、明治まで京都の内裏で行われた。そしてやがて天皇がお亡くなりに

                 なった時にご遺体をどうするか、平安京ができる前の時代から天皇が亡くなると、宮城の外の陵に葬るというしきたりができた。

                 人間の死は穢れるということから、天皇と言えども宮城の外の陵に葬るという方式が出来上がった。京都で天皇陵の古墳が各所に

                 造られている。それは京都を取り巻く東山、西山、北山の山麓に造られた。この泉涌寺は東山三十六峰の南端の陵に遺体を葬る

                 場所で、これは天皇さんだけでなく市民達はすべて亡くなると東山の砦の山麓に葬られる。町の真ん中に穢れが入ることを防ぐこ

                 とである。そういう意味では、天皇が健康な身体を持っている間は、毎年正月には健康診断。悪霊払いの儀礼をおこなって天皇の

                 健康を祈願、祝福することを毎年行っている。亡くなるとその遺体は都の外の山麓に葬るしきたりができた。ところが、明治維新

                 で神仏分離令ができて、内裏の中の皇室の仏事に関する一切のものが取り払われた。内裏の中には神道関係の祭祀それだけが残さ

                 れた。取り払われた仏事に関するものは、泉涌寺に移された。一部は、東寺に移され真言宗の密教僧が、天皇さんの悪霊払いをし

                 ている。そして亡くなった場合の葬儀は泉涌寺で行う、分業体制になり、仏事に関するすべてが皇居からとり払われた。それが

                 明治、大正、昭和と続いている。

                  明治維新で神仏共存の体制が壊された、壊さないと政教分離の近代的な考え方に、つまり国家統治で国際的な流れで従うことが

                 出来ない、国際的な流れ沿うことは必要であった。そのために神道と仏教の共存の体制というものが、神道一本やりが後の国家神

                 道で太平洋戦争と進んで行く。だから敗戦と同時に国家神道が否定された。これは何も占領軍によって否定されたものではなく、

                 天皇制を受け入れるために日本の政治が、これを受け入れた。致し方のないものであった、ところが明治以前の伝統が忘れられ、

                 明治から始まった神仏分離の体制から出発しようということからなってくると日本人の文化の根本、日本人の信仰は、ああいった

                 ものに抵触し、これから起こるかも知れない

                  京都御所の在り方も見直す必要がある。歴史的変化は致し方ないが、それはそれとして認めながら歴史的、伝統を今後に生か

                 していくという観点から、この御寺を考えていくことが大事。

                  ○上村猊下

                   今、山折先生から御修法(みしほ)とうお話がありましたが、空海が宮中の観音院で始めたのが始まりで、今ちょっと私が襟

                  につけている白いマフラーに関係がありまして、空海が宮中で、にしのうと言って、先の7日間を宮中の行事、後の8日間から

                  の14日までの7日間を、みしゅほといって、今でも、場所を東寺に移して1月8日から14日まで東寺の禅僧が白いマフラー

                  をして、天皇家の安全・安泰を祈願しているわけでございます。この白いマフラーは、ボウシといって、空海が祈願をしている

                  ときに、嵯峨天皇が寒いだろうと着ていた白衣の袖をちぎって空海に渡したのが始まりであります。

                   泉涌寺は、知名度は低い、京都で言うと清水寺や金閣・銀閣のようにたくさんの方がお寺に訪ねて来ることがないので維持管

                  理が大変です。私が平成18年に、泉涌寺の長老に就任したときに、ある知人から泉涌寺は、何処にある、大阪ですかという人

                  がいまして、泉涌寺は、「何にも泉涌寺」と言われたことがあります。歴代の天皇さま、皇后さまはお勤めをしているときは皇

                  室が維持管理をしてくれていたのですが、法律が変わって、泉涌寺が自立するようになって、泉涌寺のお尚さんはわりと優雅な

                  方で、危機管理をあまり考えなかったので大変です。

                   昭和41年に、昭和天皇さんが泉涌寺を守る会を作れと言われて、三笠宮様を総裁として出発して去年が50年、いろんな方

                  が会員になってくれて、少しは楽になりました。今は秋篠宮殿下が総裁になっていただき今年で21年になります。

                  ※ 御修法(みしほ)・・「天皇が僧を呼んで密教の修法を行う」

                 ○山折哲雄

                   泉涌寺という名前は、泉が湧くということですが、京都には清水寺もありますが、水が湧く、やはり水がうまい。もう一つ

                  泉涌寺には泉が湧くというほかに、仙人が遊ぶという意味で仙遊寺と呼ばれている、この場所を訪ねておりますと山の向こう

                  からいろんな仙人が現れてくるようなそういう湧水の地でもある。いい名前だと思います。仙人が遊ぶ、泉が湧く。この泉涌寺

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