〜生誕300年記念〜

”伊藤若冲展「後期」を観賞

〈相国寺承天閣美術館〉


               平成29年1月24日(火)、この冬一番といわれる小雪のちらつく厳寒の京都に、渡辺会長以下12名が相国寺承天閣美術館

              で開催中の伊藤若冲展(後期)を観賞しました。今年は、酉年にちなみ、本邦初公開の「鸚鵡牡丹図」をはじめ、鶏、鴨、雁、

              叭々鳥、翡翠等の鳥、また同じく初公開の「牡丹図 南海賛」他名品の数々が展示され、中でも「鸚鵡牡丹図」は、岩の上に

              羽根を休める鸚鵡など、日本の自然では見ることができない、若冲の想像上の絵も展示されていて感動しました。


〜世界文化遺産の中の都人たち〜

”天龍寺に想いを寄せて”(対談と特別拝観)

〈京都仏教会主催・天龍寺協力>

               午前中、伊藤若冲展の観賞後は、午後3名が天龍寺で合流して、天龍寺友雲庵において「天龍寺の庭と禅の心」に

              についての対談と茶室・法堂内雲龍図の特別拝観で、天龍寺の認識を新たにしました。

              〈対談〉

                ○ 田原義宣(たはら ぎせん):臨済宗天龍寺派宗務総長

                ○ 田中恵厚(たなか えこう):宝鏡寺門跡住職(別名:人形寺)

              【天龍寺の歴史】

                (建立目的)〜足利尊氏は、後醍醐天皇の怨霊を鎮めるために天龍寺を建立したが。後醍醐天皇を大変尊敬していた。

               足利尊氏は、逆族といわれ、室町幕府は京都の時代まつりには参加できなかったが、3年前から参加

              できるようになった。逆族といわれた、足利尊氏・直義兄弟は逆賊どころか、大変な信仰心の厚い人で

              あった。したがって、天龍寺を作る時には、兄弟自らが「もっこ」を担いだといわれるぐらい後醍醐天皇

              を尊敬していた。〜 

               天龍寺は、臨済宗の禅刹で、足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれた。その目的は後醍醐天皇の菩提を弔う

              ため暦応2年(1339)に創建され、造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園寄進したが、なお造営費用は足りず、直義は、夢窓と

              相談の上、元寇以来途絶えていた元との貿易を再開し、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」

              の始まり。造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1344)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、

              この位置づけは以後長く続いた。かって広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われ、特に応仁の乱に

              よる被害が大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後、秀吉の朱印を受けて

              順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火(薩摩軍)の

              ために再び伽藍は消失した。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。

              ※ 田原義宣宗務総長は、精進料理に詳しい人で、「精進料理と禅の心」についても話があった。和食の素晴らしいところは、

                西洋料理や中国料理にはない、素材を生かした料理で、「お和え」は代表的なものである。特に「しらえ」は、豆腐や蒟蒻

                など素材そのものの味をうまく生かした料理であるとの説明があった。

                 中国にも精進料理の店を出しているが、中国がかって文化大革命のとき、本や記録などがほとんど処分されたため、中国の

                僧は、本や何か書いたものを欲しがっていたので、精進料理を通じて本や資料を提供している。

               (念のため、金儲けではないとのことです。)

                【宝鏡寺】

                   宝鏡寺は、西山(せいざん)と号し、百々御所(どどのごしょ)という御所号をもっている臨済宗単立の尼門跡寺院。

               本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられ、膝の上に小さな円鏡を持っている大変珍しいお姿を

               している。

               開山は景愛寺(けいあいじ)第六世であった光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であり、応安年間

               (1368〜1375)に御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を景愛寺の支院であった建福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山

               したのが始まり。

               景愛寺は弘安年間(1278〜87)に無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山した寺院で、足利氏の庇護により、

               南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位におかれ、寺門は大いに栄えていました。

               しかし、応仁の乱の兵火や足利氏の衰退により消失してしまいましたが、華林惠厳禅尼の入寺以後は宝鏡寺の住持が景愛寺を

               兼摂することとなり、現在まで景愛寺の法灯は宝鏡寺が受け継いでいます。また寛永二一(1644)年、後水尾天皇々女久厳理昌

               禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺されてより、紫衣を勅許され、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤め

               る慣わしとなりました。

               天明8(1788)年の大火では類焼しましたが、寛政10(1798)年竣工の書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者

               の間の六棟が復興され、現在は京都市指定有形文化財に指定されております。

               文政10(1827)年上棟の本堂は前後三室からなる六間取の方丈形式で、書院には円山応挙の杉戸絵、天保8(1833)年に

               円山応震と吉村孝敬が描いた襖絵がはめられています。

               ※ 古い人形など不用な人形を持参すれば、供養をして処分してくれる。