〜金閣寺方丈杉戸絵 奉納10周年記念〜

森田りえ子展の鑑賞と有馬頼底老師との対談を拝聴

きのう今日…そしてたおやかに時代をつむぐ

  

※展示期間 4月5日から6月19日まで。相国寺承天閣美術館で展示中。華やかで、見事な作品を鑑賞あれ!

       


平成28年4月10日(日)渡辺会長以下11名が、相国寺承天閣美術館で開催中の”森田りえ子展”を鑑賞しました。

この日は森田画伯のファンも多く、有馬老師との対談ということもあって、会場では整理券を発行するなど入場者も多く盛況でした。

 森田画伯が、有馬老師に依頼されて作成された方丈杉戸絵は、日ごろは目にすることのできない作品で、素人の目でもあでやかで素晴らしい杉戸絵でした。

そのほか、花びら一筋ずつを描いた糸菊など四季折々の花鳥画、舞妓達や女子高校生ファッションなど現代を生きる女性像は、いずれも型にはまらず色鮮やかで

生命力にあふれた作品で森田画伯の人柄をよく表し、観る人を引き付けるものばかりで感動を受けました。

森田りえ子画伯と鹿苑寺(金閣寺)の縁

金閣寺の方丈(本堂・儀式を行う所)が江戸初期の創建で相当老朽化した。さらには、天井にアライグマが住みついてバタバタしたりフンをしたりして天井板が

腐り、解体修理することになった。この方丈には杉戸絵16面があるが、退色して見えなくなくなったので、誰かに絵を描いてもらうこととしたが、やはり京都の人に

頼もうと当時、一躍現代画壇で注目されていた森田りえ子画伯に有馬頼底老師が直接、電話して「森田君、杉戸絵を書いたことがあるか」と聞いたところ、森田画伯

は杉戸絵も襖絵も全く描いたことはないと返事したが、「描いてみるか」と即決して森田画伯が杉戸絵を描くことになった。(天井の龍は、東京の伊藤若冲の源氏物語

の挿絵を描いた人に頼んだ)

 この杉戸は、樹齢700年の秋田杉をばっさり切って作られたもので、700年も厳寒地で風雨にさらされて来た尊い命を私に与えてくださるということで、この

板戸がアトリエに運び込まれたときは、その命と尊さをすごく感じたので、この逞しさ木目を生かしたような絵にしたいと、2006年から1年がかりで春〜牡丹、

夏〜花菖蒲、秋〜菊、冬〜椿の日本の四季を代表する花で杉戸絵を仕上げたそうです。

”森田画伯の「花への想い」”

  私は、画家としてできることは、命のプロセスを、全身全霊で生きている花たちの声なき声で命を伝えようとしている花の想いを受け止め作品として残す

  ことが私の力だと思っている。

  花を写生していると、様々な生き物たちが訪問してくる、それは小鳥であったり昆虫であったり、カエルであったり、それらが一所懸に命をつないでいる姿を

  写生しながら見ていると穏やかな気持ちになり、私も自然の中に一員だと感じさせられる。

   花は、大地の根っこの部分から多くの栄養分を吸い上げ、花へ送り、花はやがて多くの動物たちによって実を結び、次の世代へとつないで行く、それをずっ

  とずっと繰り返している。そういうことを感じることが画家としての幸せの瞬間である。

    ※有馬頼底老師からは、世界遺産の中で君の絵はずっと生き続けていると言われ、画家冥利に尽きると思っているとのことです。

〜金閣寺方丈杉戸絵海を渡る〜

杉戸絵は、2009年5月19日に、パリの三越エトワール美術館(凱旋門の前)で展示され、有馬老師の説明と舞妓さん2名の踊りで、大変な好評であった。

※2013年には、ブータンを訪問。訪問者は60名参加したが、うち12名が坊さんでした。

 ブータンでは、国王が2年前に来日した時、有馬老師がお世話をして大変懇意であったので、ブータン訪問時には、国王自らが、有馬老師に日傘をさしてくれたり

して、恐れ多いと言うと、ブータンでは国王より坊様の方がえらいのです。と言われた。(本当かどうかはわかりませんが)。大変恐縮したとのことです。

 ブータンは幸福の国、政治、経済は二の次、国民生活が第一という国柄です。また中国の広州では仏教関係者は大事にされる。有馬老師は85回訪中している。

 

 


相国寺と伊藤若冲の関係

江戸時代の中期の相国寺は、伝統ある禅宗文化の拠点として多くの人々を魅き付けた。その代表が、奇才の画家として知られる伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)である。

若冲は、世俗をすてて禅宗に深く帰依する宗教人でもあり、相国寺の住持大典(だいてん)和尚と深い交遊関係を結んでいた。その関係から若冲は、相国寺・ 金閣寺・

銀閣寺に伝来する中国や日本の古画に親しく接する機会に恵まれた。文正筆「鳴鶴図」に触発された作品を複数制作したのも、こうした縁があったれば こそである。

さらに若冲は、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅(のち宮内庁に献上)と『釈迦三尊図』3幅対を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けた。とくに『釈迦三尊図』は、

『動植綵絵』とともに毎年相国寺で参詣者に公開されたため、若冲の名は万人に知られるところとなった。

相国寺の名前の由来

「相」は「しょう」と読みます。顔の相、人相など、形を意味するときは「そう」と発音しますが、宰相、首相等という時は「しょう」と発音します。「相国」とは

国をたすける、治めるという意味です。中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。

 相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられました。また義満の時代は中国では明の時代でしたが、このとき、

中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。

中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしています