〜世界文化遺産のなかの都人たち〜

”対談(醍醐寺に想うこと)・三宝院内白書院特別拝観

平成25年3月13日(水)

 

≪京都仏教会主催≫


文化部の活動として、渡辺会長以下16名が、平成25年3月13日(水)、対談「醍醐寺に想うこと」を拝聴し
その後、醍醐寺三宝院内白書院(重要文化財:三宝院純浄観 奥宸殿 本堂)の特別拝観をしました。

仲田順和醍醐寺103世座主猊下より、醍醐寺について説明がありました。
醍醐寺は、聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得
小堂宇を建立し、准胝、如意論の両観音像を安置したのに始まる。のち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、
延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂が落慶するに至って上醍醐の伽藍が完成
した。それに引き続くように下醍醐の地の伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、天暦
5年(951)に五重塔が落成、下伽藍の完成をみた。その後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において
重要な地位を占め、政治の中心にあった人達との交流も深く、たとえば藤原一族に代わって大きい権力を持ってい
た権門源俊房の系統(醍醐源氏)の人が座主として幾代も続いた。そして座主勝覚(俊房の息)の時代に伽藍が整
備され、永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺の発展の基礎が確立された。

醍醐寺といえば、太閤秀吉の盛大な桜の宴を想像されるが、実は秀吉が関白将軍の称号を授けられたのは二条家
からで、当時二条義明の二男の寺が荒れている姿をみて力を貸し、醍醐寺の伝承の手伝いをした。後に北の政所
の支えによって秀頼に引き継がれた。
※醍醐寺の敷地面積は、200万坪でそのほとんどが山で、醍醐尊は僧侶によって祈り、守られてきた。

(三つの祈り)〜1000年続く祈り〜僧侶が大切に守って、山伏が祈りの世界を支えてきた。
○不動尊、5体の明王を守り、祈りの中から力を得た
○命に対する祈り〜観音様を祈ることにより子を授かり、子が平穏に育つ
○命の尊さ、尊厳に対する祈り
≪対談≫ 仲田順和醍醐寺103世座主 : 田中和弘京都府立大学大学院生命環境科教授
※修験道の活動を通じて森林をいかに守るか。(祈りの世界で理屈なしでに受け止めればいい。)
「絶対的価値観」修験道は、まさに実行者で、その先には絶対踏み込んではいけないなどの「結界」をもっている
「相対的価値観」親を通して、先人の教えを通して、あるいは社会環境によって自分で決めることができる価値観
(自制心につながるもの)で、世の中の動きから、総体的価値観が主流となってきているが、僧侶が大切に守り、
山伏が祈りの世界を支えた、地・水・火・風・空を理屈なしで身をもって守っていく。
自然界のあらゆる命は、すべてにつながっている。自然界の法則を修験道が守っている。
五大の上に自分の意識をおけばいい。

※醍醐寺の境内が200ha幅1km長さ2kmもあること。その境内の一木一草がこのお寺を支えている。この森林は
平安時代からみんなの手で維持されており、18世紀ヨーロッパではフランス革命後に森林の保全が考えられる様に
なったことからみてもその以前から自然環境保護の思想が原点がここ醍醐寺にあることを教えていただいた。

                                  (I顧問)



三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が
居住する坊です。 現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿
造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。

※ 三宝院の内部は、撮影禁止のため、画像はありません。